◎御理解第六十四節(身凌ぎの信心)の究極の決定版と。おかげの味が分かったら、次にはお徳を受けることを尋ねて参らなければならない。信心が信心を教える。御理解を頂いて、そのことを復習して、勉強して尋ねて行く信心姿勢。
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%1今年のスローガンは「より明るく、よりにこやかに」

昭和四十四年六月一日朝の御理解  


X御理解第六十四節「此方は、参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて、遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて身凌ぎをするやうになれ。」

X御理解第三節「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子居っておかげを知らず、神仏の宮寺氏子の家宅皆神の地所。そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼致し、前々の巡り合せで難を受け居る。今般、生神金光大神を差向け、願ふ氏子におかげを授け理解申して聞かせ、末々迄繁盛致す事、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つやうに致す。」


 %U信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれ、と。徳を受けなければ身凌ぎをするようになれない。身凌ぎということです。これは御神意の深いことですから中々、ここのお言葉に出ておる、表面に出ておるところだけでは中々分からない難しい御理解だと思います。

 %U私共もこれは例えて申しますと、自分のことは自分で出来るようになる、というような風に頂いておりましたが・・・・。「此方は参って尋ねる所がなかった」という事は、「氏子はおかげを受けて」とおっしゃておられますが、氏子はお参りする所があり、尋ねる所があるという意味だと思うんです。

 %U教祖の神様はただ、もちろん小さい頃から御信心がお好きであった。もう、あの界隈で教祖様がお参りにならない所はない位に、どこどこのお宮様とかお寺様とか、四国、お伊勢様迄もお参りをしておられます。いわゆる信心の遍歴を重ねておられる訳です。ね、尋ねる所がおありにならなかったからです。ところが、「氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが」とおっしゃるのは、私のように尋ねる所もなかったと云うのではなくて、皆さんは尋ねる所があると、尋ねるところがあるから、というわけです。お参りをしてくるが尋ねるところがある。この辺のところにこの御理解は重点をおかなければならないと思うのです。

 %U最後に「徳を受けて」とおっしゃるのですから、その徳を受けれる、いわば、徳を受ければ身凌ぎが出来るという事でしょうから、その徳を受けるという話を聞きに来なければいけんのである。ね、ですから、毎日お願いしとります。一生懸命拝んどりますという事ならば、教祖の神様がそのことのずっと前に天地の親神様からこうして御裁伝を受けられるというか、ね、御依頼を受けられる前になさった信心と同じ事だ。

 %U徳を受けて身凌ぎをするようになれ。と、だから徳を受けて身凌ぎの出来るようなお尋ね方というか、お参りの仕方というものが、そのようにならなければならんという事を、ここでは教えておられる訳ですねえ。そうでしょう。だから、ここのところを問題にしなけりゃならない。はたして、そんなら、自分は合楽にお参りさせて頂いて、毎日お参りさして頂いておる。毎日、まあ、御理解も頂いておる。けれども、徳を受けていく為の信心が身についていなかったら、それは、ここへ参って来る値打ちはない。という事です。

 %U%Vね、私はどこにも尋ねる所がなかった。が、おかげで神様からこのようなお知らせを頂いて、このように信心の確立ですか、今までたくさんあった様々な信心から脱皮して、このような信心を身につけていく。と、天地の親神様もそこんところをこの度、金光大神を差し向けとおっしゃっておられます、この度金光大神を差し向け、御理解第三節のところにございます、「今般、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛致す事、氏子ありての神神ありての氏子上下立つように致す。」とこうおしゃっておられます。

  %U%V今般、金光大神にいろんな事を教えておられます。そして、「願う氏子におかげを授け。」という事は、やはり、いろんな難儀を持ってくる。その難儀の解決を頂けれるおかげをまず授けて、次に「理解申して聞かせる」と、こうおっしゃっておられます。だから問題は、この「理解申して聞かせ」という、理解申し聞かせて頂けるという事が、有難いのであり、その申して聞かして頂けるという事の為に、参って来る氏子という事にならなきゃいけんのです。

 %U%Vですから、おかげを受けるまではね、だから、これは金光様の信心じゃなくてもいいわけです。ね、おかげを受けて、そして、金光大神が理解申して聞かせて下さるその事をです。だから、此方は参って尋ねる所がなかったと、氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、皆さんはこうやって朝早くから遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて。参って来る事によって徳を受けるのではなくて、参って尋ねるところに徳を受ける道が開けてくるのです。

 %U%Vですから、どういう事になるかと云とですね。いくらお参りしましても、朝参り夜参りが出来ましても、只、お願いのために参ってくるのであっては、身に徳はつかないという事です。どこまでも、「ここは信心の稽古をしに来るところであって」とおっしゃるように、信心の稽古。だから、身凌ぎの初めとはどういうことかと云うと、自分から自発的に勉強しようという気になって、学校に通うように、たとえばなったら、いわゆる学問が身につくようにです。信心も自分から率先して、自分からお話を頂く事が楽しみになって信心の稽古をさせて頂くという事が有難くなって、お参りをするようになったところから身凌ぎの始まりがあるのです。

 %Vですから、ここのところが出来なくて何十年お参りしたって身凌ぎが出来るようになれません。さあ、今日はお参りをさせて頂いて、どういう事を教えて頂くだろうか。昨日お参りをして、あー頂いて実行したけれども、どうも分からないところばかりであった。その分からなかったところを、明日お尋ねさせて頂こうと。例えば、信心がそういう姿勢になる時です、初めて身凌ぎが出来るようになってくる第一歩になる訳です。

 %Vですから、この事をお願いせんならんからと云うて、お参りをして来るのではです。どんなに理解申して聞かしても、只、それをただ聞いておるだけであって、まあだ、身凌ぎの第一歩になっていないのです。身凌ぎちゃ、誰に云われんでも本気で信心の稽古をさせて頂こう、御理解を頂かして頂こう、本当の事を分からして頂こうと、そういう本当の事を分からして頂こうとする願いに立ってお参りをして来る。ですから、お参りをして来て、御理解を頂かないなんて、もう、およそ、意味なしですねえ。そんなら家から拝んでもいい。金光様の御信心ちゃいらん。という事になるのです。

 今度、金光大神を差向けて下さった訳というのは、おかげを受けて身凌ぎの出来るようになる信心。そこから、次にあるのが、御理解第三節にありますように、上下立つようなおかげが展開してこなければならん。上下というのは、神様も助かって下さり、私共も助かっていくといったような神人共栄ね。神と人とがいっしょに共に栄えていくというような道が開けてくる。ね。

 %V少し難しいですね。けれども今日の御理解を頂きますと、やはり、その勉強なんです。そげな難しか話は聞かんでん、私しゃ、このことばぁーお願いするだけでよか。といったようなことでは、身凌ぎの第一歩にも入ってないことです。身凌ぎの第一歩というのは、自分から進んで、いわば勉強するには向学心に燃えるように、信心させて頂くものが信心のその奥の深い、奥の深さというかね。信心の有難いところに触れていけれることを楽しみで参ってくる。今日はどういうことを稽古さして頂くだろうかと、それを楽しみに参って来る。また、昨日習うたことが分からなかったところをもう一遍、お尋ねさせて頂こうといったような、その身欲に満ちた信心。それをこのことばぁー、おかげを頂かならんから、一週間ひとつ朝参りをしよう。こういう大きな願いを立てておるから一年間ひとつ朝参りをしてみよう。という間はまだ身凌ぎの第一歩でないことになります。

 %Vですから、まず、私共が身凌ぎの第一歩をひとつ心の中に確立しなければいけん。いよいよ本気で信心の稽古に通うて来るという事です。ですから、その教えて頂く事をやはり、そのー復習しなければならない。それを生活の上に頂いていかなければいけません。でなかったら、稽古になりません。そこから、何が生まれてくるかと云うとです。いわゆる信心して徳を受けてと、こうおっしゃる、いわゆる、徳を受けていく為の信心がそこから出来てくる訳です。

 %Uそこから例えて申しますとです、信心が信心を教えてくれる。いろんな仕事に熱中致しますと、その仕事が仕事を教えてくれるように、私共信心に熱中致しますと、そこに、信心が信心を教えてくれるようになる。そこのところを教祖は身凌ぎとおっしゃったんだと私しゃ思います。新しい自分の信心の分野というものが、そこから開けてくる訳ですね。

 「此方は参って尋ねる所がなかった。」というておられる事は、皆さんはここへ参って尋ねる事が出来るという事なんです。「氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが」と、朝早くから遠い所からこうやって参って来るが、その事が楽しみで参って来なければ。という意味がここには含まれていると思うのです。遠路の所を参って来るが、こういう有難い事をこういう難しい事を自分ではとても考えては、分からない。けれども、こういう事をヒントに頂く、ということ。

 はっきり信心の稽古をさせて頂くというその事が、ここへ参って来ると楽しゅうなって来るという事が有難いと分からなければならん。という事が分かります。信心して徳を受け、そうして、信心のお話を頂いて、そのお話を自分のものにさしてもらう為の、いわばお話しを頂く。自分の思い方は、このように間違っておった、自分の行いはこのように間違っておった、というところをです、分らしてもろうて、分かったらそれを改めてそういう信心になっていかなきゃならない。

 そこからです、信心が信心を教えてくれるようになり、これがお徳というものであろうかと云うように、身に徳を受けていく事が出来るようになる。そこからです、信心が自分のものになってくるという事は、身凌ぎをするようになる。

 そこで、そんなら身凌ぎをするようになるという事を結論をたとえば申しますと、どういう事になるかと、私共が日常生活の上に起こってくる事は、もう、一人一人に違います。まあ、よく似ておるようであってもみんな違うのです。そうでしょうが。様々な例えば問題があります。ですから、それぞれに違うのですから同じという訳には参りません。夫婦は一心同体といわれておっても、やはり、主人の考えと家内の考えは違うのです。ですから、その事柄、または、問題をです。誰の相談を受けなくても、誰に相談をしなくても、そういう問題が有り難くこなせれるようになるという事です。結論はそれが身凌ぎが出来れるようになった事です。

 段々、信心を分からして頂いて、信心の稽古を段々させて頂いて、または、その、本当に信心の稽古をさせて頂こうという、そういう願いの元に、お参りをして来るという事が身凌ぎの第一歩だと、今日、私は申しましたね。只、今日もこの事のお願いをせんならん。今日も商売繁盛のお願いをせんならんけん。お参りをしてお願いをしてくるというような信心なら、何十年と続いても身凌ぎの出来るような信心にはなりません。

 けれども、ここへ参って来ると、尋ねる所がある。尋ねられる。その事を、いわば、尋ねる事を与えられる。その事を持って帰って、信心の稽古をするところから、信心が信心を教えてくれる。または、今までは分からん事すらが、分からなかった。

 %1例えていうと、今年のスローガンでありましたように、「より明るく、よりにこやかに。」、もうあまりにも、言い古した言葉であるようだけれども、その事を本気で取り組んでみると、分からない事の多いのに驚くくらいです。より明るくなる為ですから、いわば全然知らない世界です。より明るくなる為。よりにこやかに。

 %1「大体、あの人はなかなか円満でいつもにこにこしてござる。」、そうじゃないのです。そういう人達でも、よりにこやかになるためですから、よりにこやかになるために精進させてもらって、初めて難しい事、その分からないところにぶつかるんですよね。分からない事にぶつかる。そこから、より明るく、よりにこやかにという、それに一生懸命取り組み精進さしてもろうて、初めて、その事の難しさ、分からない事に、ぶつかるのですよ。いわゆる、その分からないところにぶつかる。そこから、そんなら次に尋ねるところが出来て来る訳です。その為に、ここへはお参りをして来る。だから、身凌ぎの出来る信心の第一歩とはそのことです。十年お参りをしよるからという訳にはいかんのです。

 %1そういう事を教えて頂く事が楽しみにお参りをして来る。その楽しみ頂いた、いうならば本当の事をです。自分の生活の上に表して行こうとするところから、段々、身に徳がついてくる。信心の佳境というか、佳境に入ってゆく訳です、ね。そこから、段々、身凌ぎが出来るようになる訳ですけれども、「徳を受けて身凌ぎをするようになれ」、とおっしゃる。そんなら身凌ぎとは、どういう事かというと、最後の答えですね、一人一人起こってくる様々な問題。それを自分の信心というか、自分の心の中でです。頂きこなせれるようになるという事です。それが、いわゆる身凌ぎが出来たという事です。

 なかなか、固いものやら食べにくいものやらは、なかなか食べこなしが出来ません。口の中でもごもごしとるだけです。それが歯が強くなってくると、頂きこなす事が出来るようになる。そして、これは、やわらかいものよりも、こんなかたいものの方が味があるという事が初めて分かるのです。

 難儀な問題だなぁーと思うけれども、それが難儀が難儀、問題が大きければ大きい程です。信心の味わいというのは、いよいよ深いという事が分からして頂けるのです。だから、それをかみ砕かして頂ける力を頂かねばならん事が分かります。

 初めの間は、それこそ、うにゃーうにゃーして食べさしてもらうようなもんですよね。かみ砕いて口移しに食べさしてもらうようなもの。それが自分で食べられるようになる。こなせれるようになる。もちろん、胃腸が健全になって、どのようなものでもさわらんだけの強い胃腸を頂かしてもらう。ここに初めて、いわゆる身凌ぎの確立というか、それがある訳です。そこへ信心の本当のおかげ。そういう信心を続けてさえいけば、限りなく徳が受けてゆけれる。同時に限りない無限大のおかげにつながっていく事が出来る訳です。

 信心の無かった時代には、それこそ腹がよじれるように情けない思いをしたり、腹が立ったりした事であろうけれども、信心させて頂くようになったら、そういう腹のよじれるような、腹の立つような情けない思いをするときこそ、むしろ味があるんだ。ここを受け抜いたら、そのおかげの受けられる楽しみが出来て来るといったような、その問題なら問題を、その難儀なら難儀というものをこなせれる信心。それを「身凌ぎの出来るような信心をせよ。」という事は、そういう事が分からして頂け。という事だと思うのです。

 六十四節は今までもいろいろに頂いてまいりましたけれども、今日の御理解を頂いてです。私は何か御理解六十四節の究極のところは、今日私が申しましたような事が分かってくれ、という事であろうと思うのです。まぁ、六十四節の決定版だと思います。今日の御理解は。

 ですから、それをただ今、私が申しました事だけで分からないなら、もう一辺、よくよく検討してみて、もう一辺おうかがいさせてもろうて、この一字一画の上にもです。いろんな深い意味があることを分からしてもろうて、なる程、「参って尋ねる所がなかった。」とおっしゃる事は、「氏子はここへ参って尋ねる事が出来る。」という意味ですねえ。「おかげを受けて、遠路の所を参って来るが、」 これは先程も申しました「願う氏子におかげを授け。」 と御理解第三節におっしゃるように、いわゆるそういうおかげを一辺受けて、神様の有難いことが分らして頂いたら、次には、「理解申して聞かせ」今般金光大神を差向けて、いうなら、今般、大坪総一郎を差向けて、皆んなと膝つき合わせて、理解申して聞かせてある訳です。

 ですから、その理解を分かり、その理解を頂く事が有難いと。「さあ、今日も信心の稽古に通わせて頂くぞ。」という、そこから、身凌ぎの第一歩があると、私は申しました。そして、そこから、「信心して徳を受けて」とおっしゃる。信心させて頂いて、これが信心の徳というものであろうか、というものを心に感じて、難しい問題であれば、難しい問題である程、取り組み甲斐があるというような信心が身についてきて、しかもそれが、こなせれるようになった時に、初めて身凌ぎが出来るようになったという事になる。

 どうぞ、お互い身凌ぎの出来る信心を目指して、ここへは、信心の稽古に通うて来るんだ。という思い込みを持って。はたして、今日は自分は信心の稽古に通うて来たが、何を覚えて来たか。覚えた事を本気で行じさせて頂こう。というような、お互いが、信心の姿勢が、そういうふうに変わってこなければならんと思います。もう、朝参りしたからいいというような事ではいけない、ということが分かりますね。    どうぞ。